小学校では、あまり多くの本を読んだ記憶がありません。例えば、「秘密の屋根裏部屋」や「緑の壁のアン」の内容は覚えていませんし、当時はあまり真剣に読んでいなかったかもしれません。「宝島」は冒頭と結末だけ読みました。小学校から、読書感想文の宿題がありましたが、他のクラスでは読書テストもありました。読書感想文を書くときは、無意識に引用のように書いてしまいますが、今は引用の内容を覚えていません。「ヤギは後戻りしない」、「青銅のキク」、「童年」、「母」の中の内容は今でも鮮明に覚えています。
中学校の推薦図書は多かったですが、毎回国語のテストに読書テストがありました。これらの問題は、祥子が黄包車をいくらで買ったか、車の工場の経営者は誰か、ネモ船長はどこに行ったかなどの問題でした。これらの問題が名著を読んだかどうかを検証できるかどうかは別として(答えも明らかです)、本を読む目的がこれらの奇妙な問題のためであるなら、本を読む意味も変わってしまいます。私たちのクラスは、答えられないような問題は聞かないようになったようです。
中学校の「駱駝祥子」、「ガリバー旅行記」、「ジェイン・エア」は記憶に新しいですが、これらの本の読後感を書くとなると、「同情と自由」という言葉しか出てきません。
自分自身では、読書にはある程度の受け入れ態度があります。内容が高度に理論化されていても読むことができます。高校 1 年生の「中国の郷土」は読むことができましたが、「紅楼夢」は読むことができませんでした。あまり読んでいないし、読んでいる途中で低レベルのジョークに気を取られることが多く、全く入ってきませんでした。高校 1 年生の時には、研究学習をする予定があったため、いくつかの社会科学論文を読みましたが、一気に読み終わると頭が少しクラクラしました。
高校でも読書感想の課題があり、ネットで読書感想の書き方を何度も検索しました。人々はキャラクターの主要な矛盾点を把握する必要があると言いますが、私は「霧の孤児」を読むときにはオリバーにしか注意を払っておらず、彼が養子になった生活に安堵し、泥棒団での日々に悲しみと怒りを感じるだけで、書くことができる感情はありませんでした。「山」と「朝聞道」も同様で、小説自体が短く、話すことがあまりありません。感想を話すなら、「衝撃」という言葉で済ませます。小説「三体」は長いですが、どんな感想があるでしょうか?
「デイヴィッド・コパフィールド」の読後感のサンプルがありますが、各段落でデイヴィッドがどのような人物であり、彼の母親がどのような人物であり、ミセス・スティーンロップ兄弟がどのような人物であるか... といった具体的な内容を書くのは簡単ですが、退屈です。私自身の読書について考えると、市レベルの作文コンテストで何等賞を獲得できるような読後感を書くことは求めません。ただ、読んでいるときに感動したり、衝撃を受けたり、自分の生活に誰かが同じような経験をしていると感じることができれば、成功です。